カッパドキアの絨毯屋さんのオフィスで。怖いもの知らず時代のジャパニーズウーマン^^;
▶︎ 海外へつながる道
長く生きてくると、どうして自分は海外に興味を持つようになったのか?とか、様々な偶然が重なったようにみえる出来事の先にトルコとの縁が待っていたのは、ホントに偶然だった?と考え始めた。
ある時期から、仏教書や禅、スピリチュアルな精神世界や宇宙系の本を読むようになると、自分の人生のターニングポイントの点と点が自分が自覚していないのにもかかわらず、ちゃんと進むべき方向に向かされていたことに気付いた。
とは言っても、山あり谷あり大波ありの刺激に満ちすぎた道だったけれども、ギリギリ渡れる道が用意されていたのだ!とわかるのは、いつも後になってから。
人間という生きものは、快楽の中では学ぶことができない。肉体的精神的および環境的な苦難に陥って初めて己をふりかえれるのが人間...。
そして、その苦難から学ぶようになっているはずだけれど、まだまだ多くの人は自分の外に原因を求め「あれが悪い、これが悪いからこうなった」
環境的にも楽に生きれる南に暮らす人より、厳しい自然に生きる北欧や北ヨーロッパから芸術家や詩人が生まれると何かで読んだことがあるけれど、長い冬の期間は自分と向き合う絶好のチャンスというのも納得ですね!
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遠い昔の中学生時代、まだ英語を学び始めたばかりで三沢基地から流れてくるFENを意味も分からず聴きながら、当時は海外がもっと遠かったけれど、「いつかは世界中を見てみたい」という気持ちは誰よりもあったと記憶している。
だって周りは田んぼの里山だし、都会なら親戚に一人ぐらい海外に関係ある人がいたりしたかもしれないけれど、超田舎の環境でどのようにして世界と繋がっていったかっていうことが、他人からは最も興味あるみたい。
2017年ごろだったと思うけれど、これも《ひょんなきっかけ》で中国福建省の厦門(アモイ)のそれなりの大学で講義をする機会があり、自己紹介で述べた「超田舎育ちから海外へ」というプロフィールが、中国全土からやってきた学生たちに一番アピールしたみたいで、授業の感想文にそのことが多く書かれていたそう。
講義したのは、日本語学科と英語学科の学生たちへの「学生のためのキャリアプランニング」という授業。(偶然行くことになったこの街でも、まさかの前世の記憶が甦り号泣をこらえた瞬間があったけれど、この話はまたいつか)
▶︎ 「なんでも見てやろう」
仙台の中東パレスチナレストランで。ひよこ豆ペーストのフムスが美味しい!
そんな田舎の中学生だったわたしが最初に買った海外がらみの本は、小田実『何でも見てやろう』 沢木耕太郎の前の時代の人。中学1年でこれを暗記するぐらい読み(⇦ 早熟、苦笑)いつも海外に思いをはせていた。
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『なんでも見てやろう』の紹介記事: 26歳のフルブライト留学生が、欧米・アジア22ヵ国を貧乏旅行したこの旅行記は、ユニークな「世界現代思想講座」である。 著者が欧米のスマートな知識人と媚びることなく対等につき合い、垢だらけの凄惨なインドの貧困にも目をそむけることなく向き合う姿は、爽快で頼もしい。
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そして、これまた《ひょんなきっかけ》でイスタンブールで出逢い結婚した夫も同じ本を持っていたとは!(◎_◎;)
▶︎ トルコ🇹🇷絨毯
カッパドキアの絨毯屋さん。KULA産の羊毛手織絨毯。今は大半は中国で作らせてトルコでちょっと加工してトルコ絨毯とうたっているらしい。
さて、人生で大きな影響と経験を与えてくれたトルコとのご縁も《ひょんなきっかけ》から。
ある人から「日本にはまだ手織りのトルコ絨毯が紹介されていないので、ビジネスしたら面白いんじゃない」と言われピンときたのが始まり。
それまでトルコという国とは全く縁が無かったけれど、面白いように様々な縁が繋がり、結局当時のトルコ大使を紹介してくださる方まで現れて、六本木に小さなショールームをオープンした時も大使自らいらしていただいたりと、とにかく縁が広がっていた時期。(3代に渡るトルコ大使に大変お世話になりました!)
今思うと、見えない糸でちゃんと繋がるべきものは繋がるんだな〜ということ。
全て《偶然》のように見えるものも、実は、見えない糸による《必然》だったと。
具体的には見えていなくても、一生懸命何かを掴もうと努力していれば、実はすでに存在していた望む未来も目の前に現れてくれるということですね。
▶︎ パキスタン🇵🇰航空
昔の金融公庫で運転資金を用意して、初めてトルコに買付ビジネスで行った時の飛行機会社は、グリーンのボディの激安パキスタン航空。
一番チケット代が安かったパキスタン航空でパキスタンのカラチかイスラマバードまで飛び、そこでイスタンブール行きに乗り換るルート。
当時は、パキスタンの政情も不安定で、乗り換えの時も爆弾テロ防止策で機体外にずらりと並べてあるトランクを指差して、「このトランクはわたしのだから積み込んで」と言わないとトランクが乗り換え地に置き去りにされてしまうという時代。タラップの下には、自動小銃を持った兵士の姿も。
ところで、当時のパキスタン航空の機体ときたら、大手航空会社の払下げ2、3番手の機体で床はガムテープで修繕した部分が見えたり⇦ ホントの話しです^^;
「本当に飛ぶの...?」って心配になるほど。
今だったら到底乗れないけれど、若いっていうだけで怖いもの知らず(苦笑)
もちろん一度も事故にも遭わなかったし、航空業界に詳しい人曰く、開発途上国ほど空軍パイロット上がりだから操縦が上手!なのだそうだ。
機内食も当時はスパイスに慣れていなかったので、いつも成田空港の京樽で海苔巻きなどを買ってから搭乗していたくらい(苦笑)
一度なんか、飛行中のミールサービスの時間が間違ったみたいで、テーブルに食事が乗ったまま、かつクルーが立ってお客さんが座っている椅子上部を掴んだままランディングという信じられない光景を見たことも(苦笑)
でも、パキスタン航空に乗っておかげで、経由地のカラチやイスラマバードでも観光したり、イスラム教徒の人との触れ合いもできたのでとてもいい経験になったのは確か。ちなみにイスタンブールで出逢った夫もパキスタン航空だったので、全く別の日に同じトランジットホテルに泊まっていた(笑)
▶︎ はじめての🇹🇷トルコ
パキスタン経由でようやくトルコのイスタンブールに到着してもそこは目的地ではなく、そこから首都アンカラまで国内線に乗り替え1時間ほど飛び、更にアンカラから数時間長距離バスに揺られ、広大なトルコの中央部に位置するカッパドキアへという長い道のり。
目的地がイスタンブールやアンカラではなかったのは、紹介された絨毯屋さんがその村にあったからという単純な理由。
今でこそ奇岩で有名になった世界的な大観光地カッパドキアだったけれど、当時は村の中心にメインストリートがあるだけの小さな村。
カッパドキアに石造りの素敵な別荘を持っているベルギー人女性宅で民族楽器サズを聴きながら地元ワイン🍷をごちそうになった。
でも、そんな一見遠回りに見える道でも、実はその先にはもっと大きな道が待っていたと知るのは、何回かその村に通ったあと。
様々な経験を経てきたから分かることは、今の自分には見えていなくても、すでに未来も用意されていて同時に存在しているということ。
だからといって『棚からぼたもち』にはならず、その未来を手に入れるのは、日々種々選択して決断していくプロセスを経て、いく通りもある未来の中からその一つに辿り着けるということです。
現在も仕事のほかにも様々な活動を通して社会にかかわりつつ、日々学ぶことも続けていながら、未来へのアクセスの準備もしています^^
わたしのトルコ🇹🇷物語の続きは、次回に!
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